願いの重さ

去年の今頃、友人に誘われて東京駅北区にある王子稲荷神社に行きました。

この神社には 願い事を唱えながら持ち上げ、持ち上がるか持ち上げられないかで願いが叶うか叶わないかを、
軽重によって願いが叶うまでの大変さを占う「 御石様 」という石があるそうです。

「 願いが叶うかを石に聞くなんてナンセンスだ!願いを求め動き続けていられる自分なのかを確かめてみよう!」
なんて言いながらもワクワクしながら神社に向かいました。

境内の奥の奥のほうに御石様はあるそうです。

奥に行くほど道は狭く、木がいっぱい。陽射しは遮られどんどん薄暗くなっていきます。
赤い小さな鳥居を幾つもくぐり抜けたところに御石様がありました。

御石様はどう見ても、持ち上げるなんて無理という大きさ。
しかも、石を乗せてある台がコンビーフ缶のような四角錐台で、
石を持ち上げるには手を伸ばした状態になるので力も入れにくそうです。

二人で軽く絶句した後、私が先に挑戦することにしました。

びくともしませんでした。

続いて友人。

ゴトッと鈍い音がして、
「 やった!!一瞬持ち上がったよ!一瞬でも持ち上がったことは持ち上がった!やったぁー!!」 
はしゃぐ友人。

私は悔しくなり、履いていた8cmヒールのサンダルを脱いで裸足になり再挑戦しました。
すると今度は一瞬ですが 持ち上げることが出来ました。二回目なのであまり嬉しくありませんでした。

その時、大きな石の横には小さな簡単に持ち上げられそうな石があったことに気がつきました。

特に「子供用」だなんて書いてありません。

きっと、最初からこの小さい石も見えてはいたのでしょうが、私も友人も、
恐らくほとんどの人は小さい石ではなく、大きな石に挑むのでしょう。

簡単に叶わないと思うから「願い」なので、小さな石を選んで簡単に持ち上げても
「こんなんでホントに叶うの?」と信じることが出来ないからです。

私は「やっぱり私こっちがいい」と小さい石を持ち上げ
「ほら、簡単に持ち上がったよ!」得意気に友人に見せたのですが、
友人は、私にも石にも「小物め」とでも言いたいのか無言で大人な笑みを浮かべています。

帰ろうとした時、友人が「でも、かなり重かったよなぁ」と遠くを見ながら言いました。

感じた重さは、その願いが叶うまでの大変さを教えてくれるものだからです。


たぶん、この御石様は、
石が持ち上がらなくて「持ち上がらなかったからダメかぁ」
と簡単に諦めることが出来てしまうのなら『その程度の願い』だということを教え、

『重かったから、願いを叶えるのは大変なんだな』と思ったのなら
「それだけ大変なことに挑んでいるんだよ」と覚悟をさせ、

石を持ち上げようとして、心が揺れたのなら、
「願いは叶うの?」なんて答えを求めても「そんなの誰にも分からないよ」
「叶うか叶わないかを考えてどうするの?」
「叶えたいのなら、叶うように自分が動き続けるしかないでしょ」
ということを教えてくれるものなのだと思いました。

なんてことを偉そうに友人に語っていたら、私だけ八箇所も蚊に刺されていました。

帰り、神社の方に、教えてくれないだろうと思いながら、石の重さを聞いてみると
「あれはねぇ、○○キロなんですよ」と簡単に教えてくれました。

何キロだったかは内緒です。

あれから一年、私の願いは叶っていると言えるでしょう。
迷ったり揺れながらですが、それでも私は目標に向かい続けられているからです。

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