ご無沙汰しております。サイトを新しくしてからブログはまめに更新しようと思っていたのに、すみません。
それにしても毎日異常な暑さですね。コロナで外出を控えて、コロナが治まってきたと思ったら、また感染者が過去最高まで増えるし、加えてこの暑さで嫌になります。
うちには成人した子供が二人いて二人ともテレワークです。子供達と仲は悪くない方だと思うのですが、子供達のテレワークで一人の時間が取れなくなってしまったのが辛いです。
子供達と24時間ずっと一緒に過ごすのは子供達が幼稚園に入る前以来なので20数年ぶりです。誰かがいると何かが遣り難いとかではなく、息をつく間がないというか。そのうち終わるだろうと思っていたのに3年目ですもんね。
日中だけでなく、私は元々夜更かしが多かったので子供達が寝てから一人で過ごす時間も好きでした。
でも今は、始業時間の5分前に起きる子供たちの方が寝る時間が寝るのが遅くて大体いつも3〜5時です。仕事はちゃんとやっているし、成人した”子供”に親の都合で「早く寝なさい」なんて言ったところで、スマホの画面を見たまま「うん」という返事が来るか来ないかで寝やしません。一緒になって楽しく話している日もあるのですがね。
ご主人が定年退職した後に一日中家にいると鬱になる奥さんがいますが、今まであった一人の時間が急になくなると、仲の良い相手でも辛いものです。私のことばかり言ってますがきっと子供達も辛いです。
こんな愚痴をこぼしている間にコロナも終息するかと思っていたのに3年目に入り、もう愚痴をこぼしている余裕もなくなってしまいました。ストレスで体に異変も出てきたからです。
なので最近は私が早寝早起きすることにしました。早くといっても22時頃に耳栓をして寝ます。すると4時頃には目が覚めるので子供達が起きる時間まで5時間もあります。5時間シーンと静まり返った家に居られる。これでかなり楽になりました。
あとは運動ですね。市営のプールに通い始めました。進んでいるのかって位ゆっくり30分だけと決めて泳いでますが、これだけでも心が元気になります。
どうしようもない環境の中でストレスが溜まる。全ての環境を変えたいと思ってしまいがちですが、諦めるところは諦めるしかないので諦めて、相手に期待せず求めず、自分で少し何かを変えたり始めたりするだけで楽になると思います。
「ダメ。絶対」ではなく「やりたくない」と思えるように
また薬物で芸能人が逮捕されましたね。
日本で薬物乱用防止啓発で使われている「ダメ。絶対」この標語。これってどうなんでしょう。
「ダメ」とは押さえることです。「やってはダメ!」と思わせるのではなく、
「そんなもの やりたくない」と本人が思うようにならなくてはならないと思うのです。
娘が中高校生の時に持ち帰った薬物乱用防止啓発資材の表紙には、
県のキャラクターのコバトンが怒った顔をして手(翼)をバッテンにしたイラストに、
「ダメ!ゼッタイ。」と書かれていました。
冊子を開いてみると「薬物を誘われても断ろう!」と書いてあります。薬物を勧めているのは、
昔の泥棒代表みたいな黒い帽子にサングラスに黒い上下の服を着た人のイラスト。
実際にこんな服装してる人、います?
こんな、いかにも「悪者です」という格好の人には近寄りもしないと思う。
悪人よりもむしろ、信用できてしまう者から勧められてしまうことの方が多いと思うので、
普通の服装の人や、普通の友達風のイラストの方がリアリティがあるし、
「親切で優しい人や仲の良い友達から誘われたとしても断ろう!」と書いた方がいいと思う。
イラストの吹き出しには「ダイエットに効果があるって誘われてもダメ!」
「眠くならないから勉強に集中できるよと誘われても使っちゃダメ!」
脳がダメージを受ける等も載っていましたが、これでは
『使えば痩せられるんだ』『眠らないでいることができるんだ』という「情報」を、
わざわざ心のどこか(潜在意識)に入れてしまうことにもなります。
また、報道にも問題があると思います。
今、コロナ関連のニュースを見ても
『買い溜めはしないようにと喚起しても買い占めている人がいます』
『外出自粛期間なのに外出している人がいます』 『コロナ疎開する人が増えている』
などの報道があると『買い占めてはいけない』 『外出してはいけない』と思う人もいれば、
そう報道されればそれるほど 「物が無くなってしまう」 「疎開」 という情報が入り、
『それなら買いに行かなきゃ』 『外出している人もいるなら外出しても大丈夫か』
『疎開、その手があったか』 と考える人もいます。
芸能人が薬物で逮捕された報道で発表される、薬物を始めた動機の「嫌なことを忘れたかった」は
『嫌なことが忘れられるもの』という情報にもなるのです。
復活できたという芸能人の報道も、更生施設の情報も
『薬物を使ったとしても、頑張ればやめられるんだな』という情報にもなる。
だから、更生への希望の情報も、中毒になった本人や周囲の人だけが調べて知れば良い。
現在の子供向けの薬物乱用防止啓発資材は少し変わったかなと思って調べてみたのですが、
コバトンではなく、もっと可愛い(?)キャラクターになっていました。

「子供にショッキングな内容は見せないで」と言う親も多いので批判されないよう、
このキャラクターは生まれたのでしょうか?
可愛いキャラクターなら内容に興味を持ってくれるだろうという狙いなのでしょうか?
どちらにしても本気で子供に薬物の恐ろしさを教える気があるのか疑問に思ってしまう。
あまりにも人の心について考えていないと思う。
私は薬物をやりたいと思ったことがないです。「やりたくない」のです。その一番の理由は、
小学生の頃に観た、薬物中毒患者のドキュメンタリー番組で薬物の恐ろしさを知ったからです。
独房のような狭い部屋に青い服を着た男性がいて、それだけでも異様な雰囲気でした。
カメラが男性に近づき、男性の手がアップになると親指以外の指がありません。
レポーターが指について聞くと、男性は「お手々ね、ばっちいからナイナイしたの」と答えました。
幻覚症状が出ている時に自分で指を切り落としてしまったそうです。
脳がおかしくなっているからか話し方も子供のようでした。
子供の私には「自分で自分の指を切断してしまった」というのはとてもショックでした。
指なんて少し傷がついただけでも痛いのにそれを自分で?! そんなにおかしくなっちゃうの??
どうして薬物なんて始めたのだろう・・・?
この人は、初めて薬物を使う時には自分がこんな事になるとは思わなかったよな、
こんな風になりたいと思うわけないもんな、
使っても好きな時にやめられると思ったのかな?
子供ながらに色々と考えさせられました。とにかく強く感じたのは「恐怖」
薬物なんて「絶対やりたくない」と思いました。
もし一度だけという誘惑があったと想像しても、一度でやめられる自信がないのでやりたくないです。
中毒になるつもりで薬物を始めた人なんていないと思うので、中毒の人だってきっと最初は
「中毒になんてなるわけない」「一回でやめられる」「上手くコントロールできる」
という自信があったのに中毒になったのでしょうから、
「コントロールできないもの」だと思うからやりたくないのです。
それも幼い頃に観た、あのショッキングは映像で強く「やりたくない」と思え、
「コントロールできない恐ろしいもの」だと知ったからです。
子供にショッキングなものを見せたくないという人も多いですが、
私は、時にはショック(恐怖)の方が理解しやすいものもあると思います。
中毒患者の「怖い映像」は、少し大きくなれば自分で検索して見ることはできるでしょうが、
大きくなった頃には「エンターテインメント」としてしまい他人事のような感覚でしか観れないと思います。
だから、ショックは幼い頃、小学校でこそ可愛くも親しみやすくもない「怖いだけ」の映像と、
抜け出そうとしても抜け出せない、何の希望もない薬物を使った人の末路を、
薬物乱用防止啓発資材といて見せたほうがいい、そう思うのです。本気で薬物中毒を減らしたいと思うのなら。
大きな悲しみから
今日で阪神淡路大震災から24年ですね。
その後2011年に東日本大震災がありました。この東日本大震災の後に周囲にある変化がありました。
カウンセリングでも最初は日常で困っているご相談から始まり、そこからどんどんお話が進んでいくと、
目の前の悩みではなく「自分の生き方について」「本当はこう在りたい」という相談に行きつく方が多くなったのです。
これは大きな災害により多くの死を知り、それは誰にでも突然やってくるということを知り「今の生き方は自分が望んでいるものだろうか?」「本当は何がしたいのか」を自然と深く考えることになったからなのかと思います。
クライアントさんだけでなく、周囲の知人にも変化がありました。
いつもは誰かが話す事に対して「そうそう!そうだよね!」としか答えず、
芸能人の不祥事に「許せない!」「信じられない!」と怒り、
「何故そう思うの?」と聞かれたら「だって普通そうだし」としか答えられないような、
わざと人に合わせているのではなく、多くの人が良いという物は良く見え、
多くの人が嫌うものは嫌えてしまう「自分の物差し」が無い人達。
そんな人達が2011年の震災後急には自分の物差しで考え、話すことが多くなったと感じました。
震災の影響で「自分」というものを無理にでも真剣に見つめさせる事になったからだと思います。
「人生はいつか終わりがくる。それはいつなのか、どのような形でやってくるのか分からない、だから自分を生きよう」
多くの死と、沢山の大きな悲しみは無駄にならず、どこかで誰かに良い影響を与えたのだと思いました。
しかし、それは一時的なものでした。
その後も大きな災害がいくつかありましたが、大きな悲しみもショックも何度か起きれば、
実害がなかった人達は慣れてしまうのでしょう。あっと言う間に元にもどってしまいました。
震災後、Facebookを多くの人が始めるようになり、その後のInstagram、
SNSが普及すると周囲に流され易い人達はもっと大きく、きちんと並んで流されるようになったと思う。
自分のやりたいこというよりは、誰がコレをみて良いと思ってくれるか、
多くの人が良いと思うことを良いと思い、やる、見せる為に買う、行く。
欲しくないものも世間体を気にして手放せない。
変な競争が始まる。
スターが亡くなったと聞けばそんなに悲しくなくても泣く。
周りに合わせて楽しいだけなら良いが、誰かに合わせていれば必ず心に不満も溜まる。
他人に合わせているから溜まるその不満は、身近な大切な人にぶつけてしまうこともある。
世間に合わせるだけで自分が真剣に向き合うものがなければエネルギーは余るので、
世間が悪いと思うものに怒りをぶつけたり、SNSで自分とは無関係の人に攻撃したり。
みんなとは少しでも違うものは同じように並ばせようと足を引っ張ったり。
そんな大人達の姿勢は子供にも影響する。
多くの死から学び一時的に変化するのか、その後の人生が変わるのか。
「人生はいつか終わりがくる」「それはいつ来るか分からない」
それを根底から理解すれば「今、自分は何をすべきか」を自然と考え続けられます。
一人一人がいつ何が起きても、自分が心から楽しいと思うことが多かった人生であって欲しいです。
お嬢さんからお母様のカウンセリングのお申し込み
今日のクライアントさんは70代の女性。
電話カウンセリングで、ご相談内容は度重なる体調不良についてでした。病名は七つ。心因性のものと診断されたのは一つです。
この方の症例はまた別に書きますが、カウンセリングは1時間で終了しました。
終了後には「ああ、本当にスッキリしました」と仰ってくださり、その後に「娘に、ここに電話しなさいって言われた時は、電話なんかしたってどうにもならないって思ってたんですけど、電話してみて本当に良かったです~!」と、お嬢さんに勧められたことを教えてくれました。
考えてみたら、今までに息子さんから お父さんやお母さんのお申し込みをということも、お嬢さんからお父さんのお申し込みというのも無いですが、60代~70代の女性はお嬢さんがお申し込みをしてくれたという方が多いです。
娘さんからのお申し込みといえば二年前に不思議で面白い出来事がありました。
お昼頃、女性から電話があり
女性:「あの、今、○○神社の前にいるのですが、そちらは(マグノリア)ここの近くですか?」
ホームページの地図にはおおよその場所と町名までしか載せていないのですが、その時のセッションルームはとても小さな町にあったので、町内ならどこでも近いことが分かります。
その○○神社は、マグノリアから歩いて1分の場所でした。
私:「ええ、ここは神社を曲がって直ぐに在る○○ビルですよ。カウンセリングのお申し込みですか?」
女性:「いえ、あの、母が。 あ、○○ビルが見えてきました。何号室ですか?」
女性は歩きながら話しているからか、息遣いが少し荒いです。
私:「お母さまのカウンセリングのお申し込みでしょうか?」
女性:「あの、母は80代なんですが、80代でもカウンセリングを受ける人はいますか?」
私:「80代の方は初めてですね。70代後半の方はいらっしゃいますよ」
女性:「あの、今カウンセリングをやっていますか?」
私:「いえ、でも後1時間したら予約されている方がいらっしゃいますので、今からは無理なのですが」
女性:「いえ、あの、母がカウンセリングというものを受けてみたいけど、その前にどんなものなのか、カウンセリングをやっているところを見たいと言ってるんですが。あ、今、前につきました。1時間待ってもいいので見せてもらっていいですか?」
他の方がカウンセリングを受けているのを見学させて欲しいということでした。
聞いたままを考えたら意味は分かるのですが、一瞬いたずら電話かとも思いました。
でも、電話で話している合間に女性が「ちょっと待ってよ、」など、お母さんらしき人物に話していて、何を言っているかまでは分かりませんでしたが年配の女性の声も聞こえたので本当なんだと思いました。
目の前まで来てくださったのに申し訳なかったですが、なぜ見学が駄目なのかと、カウンセリングとはどのようなものかを説明させていただきお断りしました。
電話を切った後、
二人は家を出る時から、これ(見学)を目的に出てきたんだろうか?
それとも出かけている最中に思いついたのかしら??と考えてしまいました。
悩むって悪いこと?
『 この人は私のように悩むことなんてないのだろう 』
『あの人はいつも楽しそうだから、悩みなんてないんだろうな』
芸能人や知り合いを見て、そう思う人もいると思います。
私もクライアントさんから言われることがあります。
「先生は悩みなんてないですよね」
私の話をすることはないのでそう見えるのでしょう。
ある日も、お嬢さんのことが心配で 口を出し過ぎてしまうというお母様から、
「先生は、お嬢さんのことでこんな風に心配し過ぎたりすることはないですよね。」と言われました。
なので「全然そんなことないです。昔は 娘の帰りが遅くて連絡が取れないときなんて、いつも頭の中で『 シャブレイプシャブレイプ 』がグルグル回っていました」と答えました。
すると、何のことだか分からなかったのか一瞬キョトンとされてから、
「やだ〜本当ですか⁉︎ 全然そんな風には見えないです!でもそれ凄く分かります!」
大笑いされました。
(シャブレイプシャブレイプとは、娘が誰かの手により薬物や暴行の被害にあったらどうしよう、という心配 )
後日、「先日のカウンセリングから、娘の事が心配になると先生のシャブレイプシャブレイプを思い出し笑ってしまうようになり、気が楽になりました」と仰っていました。
何が役に立つか分かりませんね。
クライアントさんからは「器が大きい落ち着いた人」みたいなことを言われることがあります。
これを私の身近な者が聞いたら爆笑するでしょう。
なのでそう言われた時にはいつも「 私ですか? 私なんて悩みのデパートですよ」と答えています。
「本当ですか? 全然そんな風に見えないです」と言われるので、
「自分の思い通りにならないことなんて勿論あるし、真剣に想うものがあれば悩みは尽きないと思っています。
それに私は欲張りなので悩むことも多く、悩むことを悪いことだと思っていないので、悩み、考え尽くすので立ち直るまでの時間が早いだけです」と答えました。
会う人すべてに「私、悩んでます」と言う人なんていません。
人が何をどう経験してきたか、いま何かに悩んでいるかなんて他人からは分からないのは当然なのですが自分が悩んでいる時には、楽しそうにしている人をみて「この人は自分のように悩むことなんてないんだろうな」と思えてしまうのでしょう。
特にSNSでは、中には愚痴や痛い話や暗い話ばかりの人もいますが、明るい投稿が多いのでそう見えるかもしれませんが、
楽しい辛いことがあるからこそ自分を楽しませたくてSNSをしている人もいると思います。
悩むとは辛いことですが『このままじゃ嫌だ、どうにかしたい』という向上心の別の表れでもあるのです。
カウンセリングを知らない人から、この仕事は「悩んでいる人の悪い気をもらって疲れるでしょう?」なんて言われることがよくあるのですが、それは全く逆で、どんな辛い悩みがあろうと、『お金を払ってでもどうにかしたい』『解決する訳ないだろうけどダメ元でもいいから何か試してみよう』という前向きな人でしかないのです。
悩むことを避け、見ないようにしても問題は長続きするばかりですし、「悩む自分が嫌だ、駄目だ」と思ってしまうと「悩んでいる自分は駄目だ」というその思いで余計に落ち込み、物事をクリアに考えられなくなってしまうのです。
今日もクライアントさんに「悩みなんてないですよね」と言われたので、いつもの「いやいや、私なんて悩みのデパートですよ」を言いました。
「全然そんな風に見えないです。悩みのデパートって懐かしいフレーズですね、久しぶりに聞きました」と言われました。
私は「 確かに古い言い方ですね〜!」なんて笑っていましたが・・・
クライアントさんが帰ってから、
古い言葉・・・恥ずかしい!
古い言葉、古い、古い人間、ババア、、
しばらくの間ウジウジして、その日から「悩みのデパート」は一切使うのをやめました。
自由を阻む壁
「自由になりたい」と思う人は多いのだな、と本屋へ行くたびに思います。
店内でぐるっと本のタイトルを見渡すと
「自由な自分になる為に」「自由人になろう」
こんな感じのタイトルの本がいつの時もあります。
先日SNSである年配の有名人女性が、自分の生き方、恋愛感について、
「世間や常識ではこうでも、私はこうするの」と、「常人とは違う生き方をしている」
というような内容の記事がありました。
「でも、こうやって自由に生きるのは大変なこともあるのよ」とも書いてありました。
読んだ人達のコメントには
「私もそう思っていました!」「それでいいんですよね!」「共感しました!」「感動しました」と
「個性」と「自由」に感動しているコメントがとても多かったです。
「世界に一つだけの花」という歌があります。
メロディーも良いですが歌詞が共感を呼び、人気のある曲だったと思います。
そうさ僕らは 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい
小さい花や大きな花 一つとして同じものはないからNo.1にならなくてもいい
もともと特別な Oniy one
そう、個性とは「持っていい」「持っている」のではなく、一人一人違って当然のもので、
「自由な生き方」もあって当然なのです。
でも、昔から個性や自由を尊重するモノは人気があるのです。
「人気がある」というのはやはりそこに「特別」を感じるからであり、共感はしても「著名人」や「歌」は、
どこか現実とは違うものとして見られているので感動したり認めたり出来ているけど、
自分や、周囲にいる者、友人や近所の人のことになると認められない人が多いのではないかと思うのです。
お子さんが不登校になり、学校へ送り迎えしていたクライアントさんが 言いました。
「今回の事は辛いことでしたが、今までの私だったら、送り迎えしている親なんて見たら『なんて甘い親なんだ』と思っていたと思います。でも今は『何か あったからなんだろうな』と思えるようになりました。
それだけではなく、今までは全てのことに対し、人がなにか自分と違ったことをしていたら、なんで!?と、いちいち思い、苛々していましたが、今は「そうなんだな」とだけ思えるようになり、そう思える自分になったのは良かったと思うのです」
同じようなことを言うクライアントさんは多く、痛みを知ったからこう思えるようになったのではなく、
自分の心を見つめたことにより、他人の個性や自由を認められるようになり、
他人の個性や自由を認めることにより、自分も「自由」になったのです。
自由になるとは、自分が自分のどんな想いも認められてしまうことです。
「自由になった!」との言葉で表すようなものではなく、もっと深く静かなものです。
自由を阻む壁とは、自分の心の中に在ります。
「個性」と「自由」 を尊重するものを見聞きしたときに、感動するのではなく 「そりゃそうだろ」と、
自然と冷めた気持ちで見つめられる。
そうなっていた時には自由を阻む壁の向こう側へ行けているのでしょう。
雨降りのお迎えの記憶
今日、催眠療法中に出てきたシーンのひとつに「雨の日、友達のお母さんが傘を持って学校へ迎えにきている」シーンがありました。
このシーンは他の方にも出てきたことがあるのです。その方もお子さんがいる女性でした。
「雨が降ったら迎えに行かないと、子供が大人になってから悩むことになってしまう」というのではありませんよ。
この出来事そのものが悩みの原因だったのではなく、催眠療法では次々と思い浮かぶものを話してもらうのですが、その中の一つです。そしてこの出来事が「悲しい出来事」だったのかと言えばそうでもなく、
催眠療法中は客観的に自分を見つめているので、このシーンが出た時には一瞬、『 友達を羨ましく思う可哀想な子供(自分)』だと思うらしいのですが、
よーく記憶を引き出してみると『 雨の日に迎えに来てくれるお母さんもいるのに、自分は来てもらえなかった悲しい記憶 』なのではなく、
迎えに来た友達のお母さんに『優しいお母さん』だとの印象を強く抱き、自分がなりたい『理想のお母さん』としていたのです。
『いいお母さんにならなきゃ』という気持ちが強くある時だったのでこのイメージが出てきたのでしょう。
私にも同じ記憶があります。私は傘を持っていっても下校時には傘もささない、長靴を履いて登校しても長靴の中に、わざわざ水道の水を入れて遊んでいたり、雨に濡れることなんてどうでもいい子だったのに、
それでも下校時間に雨が降ってきて、友達のお母さんが迎えに来ているのを見た時には「いいなぁ」と羨ましく思ったり『この子のお母さんて優しいんだな』と思ったのを覚えています。
『 雨・曇った空・傘がなくて濡れていく自分 』と『 よそのお母さんの優しいイメージ 』
良いイメージ(晴天)の、反対のもの(雨)は、
そう思っていなくても悲しいものに見えてしまうことがあります。
悲く思えるようなものと綺麗に見えたものとが一緒になると、どちらも大きく強く残ってしまうのかもしれませんね。
もし神様が願いを叶えてくれるなら
メリークリスマス!ですね
皆さんいかがお過ごしですか?
今年の初め、あるクライアントさんが言いました。
「これは、友達に少し話しただけでも無理だと言われるし、自分でもそう思うから別にいい事なのですが」と、
ある事柄について話されました。(ご相談内容とは関係ないこと)
”そのこと”を自分が「望んでいる」とも思いたくないように苦しそうに話し続けます。
確かに「大変だろうな」「無理だね」と言われそうな事でした。
なので、しばらくお話をしてから、
「もし神様が、なんでもいいから願いを叶えてあげると言ったらどうしますか?」と質問しました。
その瞬間 わっと泣き出して、泣きながらも力強く、
「もしそう言われたら、(そのこと)になりたいって言います」と答えました。
自分ではもうどうでもいいこと、絶対に無理だと思っていたので「望んでいない」と思いたかったのでしょうが
本当は泣き出してしまうほど「望んでいたこと」だったのです。
言葉に出すことで自分が望んでいることをしっかりと認めることができ、
その上で今から始めることを考え、
念の為「もし出来なかった時はどうするか」ということも考えることができました。
そして、このセッションから一年近くたった昨日、近況報告をいただきました。
(嬉しくて興奮している私の乱文)
今年の初めに「無理だ」と思っていたことが、一年も経たないうちに全て望み通りになったそうです。
このご報告はとても嬉しいクリスマスプレゼントになりました。
カウンセリングをしていると実際には無理ではないことを「絶対に無理だ」と思い込んでいる方がとても多いと感じます。
「絶対に無理だ」と思い込んでいるので「望んでいるのだ」ということも考えたくなくなるのでしょう。
現状に満足しているようでも、何か違うと感じることがある人は、一度、
「神様がなんでも願いを叶えてくれるなら何をお願いする?」自分に聞いてみるといいかもしれません。
出てきたものが、どんなに難しいこと、無理だと思えることでも良いのです。
例えば50代で「オリンピックの代表選手になりたい」「アイドルになりたい」だとしたら、
実際にオリンピックの選手になることはなくても、
「オリンピックの選手」や「アイドル」の中に在る何を望んでいるのか?
爽快感、達成感、名声、挑戦する気持ち、など、他にも色々あると思います。
何を望んでいるかを意識化すれば、絶対に無理ではないということも知れ、
それと全く同じものになれなくても、その中に在った「望むもの」が違う形で叶うこともあるのです。
「もし神様が願いを叶えてくれるなら」
年に一度でも、子供のように考えてみては如何でしょうか。
(次女がクリスマスケーキを作ってくれました♪)
「つまらない」みんなは何が楽しくて生きてるの?
ある男性のクライアントさんが言いました。
「何をやっても毎日つまらない。皆は何が楽しくて生きているんだろう」
同じような事を言った方は他にもいます。
他人と自分を比べ、いじけたり羨んだりして言っているのではなく、心の底から溜め息を吐くように言うのです。
こんな風に「つまらない」と言うのは過去に「強烈に喜べた経験」があったからです。
今はそれがない、無くなってしまった。だからこそ「つまらない」のです。
これはあるお寺の掲示板に書かれていた言葉です。

『 甘い記憶は、現役を続ける人間にとって、無縁のものでなければ嘘である』
甘い記憶とは「喜びの記憶」です。
老い、体が動かなくなってしまった時、人には思い出しか残りません。
過去の喜びだけを思い「あの事があったから、あの思い出だけで満足」そう思うのも、
そう自分に言い聞かせるのも良い。
でもそれは、全てを諦めきってしまえるような状態になってからであり、
『現役を続ける人間』、今を生きている者は『思い出だけで満足している』というのは嘘でなければならない。
現役を続けられているうちは、喜びを求め続けよう。という意味だと思うのです。
現役を続けている者は「諦めることが出来ない自分」がまだいるので「つまらない」とも言えるのです。
「つまらない」と言えているうちは、また心のどこかで喜べる事がない自分に疑問を持っているということです。
疑問を持つということは喜びを求め続けていることには変わりないので、いつかはまた喜べる事が起こる。
喜びを求め続けていたなら、もし喜べる出来事がなかったとしても、
老いた時に、その喜びを求め続けた自分が「甘い記憶」になるのです。
願いの重さ
去年の今頃、友人に誘われて東京駅北区にある王子稲荷神社に行きました。
この神社には 願い事を唱えながら持ち上げ、持ち上がるか持ち上げられないかで願いが叶うか叶わないかを、
軽重によって願いが叶うまでの大変さを占う「 御石様 」という石があるそうです。
「 願いが叶うかを石に聞くなんてナンセンスだ!願いを求め動き続けていられる自分なのかを確かめてみよう!」
なんて言いながらもワクワクしながら神社に向かいました。
境内の奥の奥のほうに御石様はあるそうです。
奥に行くほど道は狭く、木がいっぱい。陽射しは遮られどんどん薄暗くなっていきます。
赤い小さな鳥居を幾つもくぐり抜けたところに御石様がありました。
御石様はどう見ても、持ち上げるなんて無理という大きさ。
しかも、石を乗せてある台がコンビーフ缶のような四角錐台で、
石を持ち上げるには手を伸ばした状態になるので力も入れにくそうです。
二人で軽く絶句した後、私が先に挑戦することにしました。
びくともしませんでした。
続いて友人。
ゴトッと鈍い音がして、
「 やった!!一瞬持ち上がったよ!一瞬でも持ち上がったことは持ち上がった!やったぁー!!」
はしゃぐ友人。
私は悔しくなり、履いていた8cmヒールのサンダルを脱いで裸足になり再挑戦しました。
すると今度は一瞬ですが 持ち上げることが出来ました。二回目なのであまり嬉しくありませんでした。
その時、大きな石の横には小さな簡単に持ち上げられそうな石があったことに気がつきました。
特に「子供用」だなんて書いてありません。
きっと、最初からこの小さい石も見えてはいたのでしょうが、私も友人も、
恐らくほとんどの人は小さい石ではなく、大きな石に挑むのでしょう。
簡単に叶わないと思うから「願い」なので、小さな石を選んで簡単に持ち上げても
「こんなんでホントに叶うの?」と信じることが出来ないからです。
私は「やっぱり私こっちがいい」と小さい石を持ち上げ
「ほら、簡単に持ち上がったよ!」得意気に友人に見せたのですが、
友人は、私にも石にも「小物め」とでも言いたいのか無言で大人な笑みを浮かべています。
帰ろうとした時、友人が「でも、かなり重かったよなぁ」と遠くを見ながら言いました。
感じた重さは、その願いが叶うまでの大変さを教えてくれるものだからです。
たぶん、この御石様は、
石が持ち上がらなくて「持ち上がらなかったからダメかぁ」
と簡単に諦めることが出来てしまうのなら『その程度の願い』だということを教え、
『重かったから、願いを叶えるのは大変なんだな』と思ったのなら
「それだけ大変なことに挑んでいるんだよ」と覚悟をさせ、
石を持ち上げようとして、心が揺れたのなら、
「願いは叶うの?」なんて答えを求めても「そんなの誰にも分からないよ」
「叶うか叶わないかを考えてどうするの?」
「叶えたいのなら、叶うように自分が動き続けるしかないでしょ」
ということを教えてくれるものなのだと思いました。
なんてことを偉そうに友人に語っていたら、私だけ八箇所も蚊に刺されていました。
帰り、神社の方に、教えてくれないだろうと思いながら、石の重さを聞いてみると
「あれはねぇ、○○キロなんですよ」と簡単に教えてくれました。
何キロだったかは内緒です。
あれから一年、私の願いは叶っていると言えるでしょう。
迷ったり揺れながらですが、それでも私は目標に向かい続けられているからです。


