「私を受け入れて」という癖

過去に悲しい出来事や辛い出来事があった人は「人間関係が上手くいかない」「人から裏切られることが多い」「人間不信だ」という人がいます。その中には無意識にあることが癖になっていて、それが原因で人間関係が上手く行かなっているということがあります。

その癖とは、過去の嫌な出来事を新たに出会った人に話さなければいられないという癖です。

「元彼にひどい扱いを受けた」「昔、いじめにあっていた」「親にこんな扱いをされていた」

『 私にはこんなに辛いことがあったの』それを、仲良くなりたい人に話さずにはいられないのです。

自分の辛かったことを人に話したいと思う気持ちは誰にでもあります。

しかし、初めて会った時に直ぐにその話をする。少し親しくなると、その話をせずにはいられない。

自覚がないまま、それが「癖」になってしまっているのです。

これがなぜ人間関係での悩みに繋がってしまうのかというと、自分の辛かったことは人に話し、優しくされたら嬉しいです。
「可哀想な話」をされたら耳を傾けてくれる人も多いです。

なので、悲しい話、辛い話をコミュニケーションの道具としてしまうことを覚えてしまうのです。

ですが人は最初の印象が強く残ります。聞いてくれた人がどんなに優しい人だとしても、本当に可哀想だと思われたとしても、その人との間に何かがあった時に、

『この人は、ああいう事があったから捻くれているのかな』
『やっぱり、ああいう事があったから素直じゃないのかな』と思われる瞬間も、
『ああいう事があった人だから、これは話し難いな』と気を使わせることもあるかも知れません。

そして、相手にどう思われるかよりも、この癖は自分の中で問題が起こるのです。

「出会って直ぐに過去の自分の辛い出来事を話す」が癖になっている人には、そのつもりはなくても、それを人に話すことにより、

『こんな可哀想な事があった私なのだから、大事に扱ってください』
『私が不快になるようなことは決してしないで、言わないで』
『なにか不快にさせることがあったとしても、私は心に傷がついている者だから仕方ないのです。多めにみてください』


このような気持ちがどこかに生まれていることがあり、それは、

『自分の過去に起こった出来事の傷を癒し、これからも嫌な気持ちにならないで毎日元気でいられる』責任を、
相手に期待し、要求しているのです。

なのでその相手との間で嫌な事が起きると、

「いい人だと思ったのに、」「理解してくれなかった、受け入れてくれなかった」 「裏切られた」と 相手を怨んだり、
「やっぱりこんな自分だから嫌われたのだ」 「あれを話したからバカにされた」「こんな自分だから相手にされなかった」 と考えたり、

相手との関係に不安になってくると、また「自分の悲しい、辛い話」でつなぎ止めようとします。そこには言葉にはしなくても『こんな可哀想な私なんだから優しくしてよ』という気持ちが隠れています。

それでも上手く行かないと『 あの過去の出来事せいで自分はこうなった』と、過去の出来事以外の他の原因を探すこともなく、自分の「今」にある原因を見なくなってしまう為に同じことを繰り返してしまうのです。

人間関係で悩み、同じようなことが思い当たるという方は、自分が『過去の辛い話をしたい理由』をよく考えてみましょう。『どうして会ったばかりの相手に、自分に辛い過去があった事を知ってもらいたいのか?』を、です。

「全てを知って欲しいから」「自分の全てを受け入れて欲しい」という人もいますが、「受け入れる・受け入れてくれた」とは、どのようなことを指すのでしょうか?自分に非があることも全て「あんなことがあったのなら仕方ない」と許してくれることだとを考えていないでしょうか。

もし、「可哀想なあなた」だからと何でも許してくれる人がいたとしたら、そのような人に会ったとしたら、
忘れたい癒されたいと願っているはずの「その過去」や「可哀想な自分」を自分が手放したくなくなってしまうでしょう。

また、自分の人を寄せ付ける魅力は「可哀想な自分」だけだと無意識に勘違いしてしまいます。

そうなってしまうと、辛い出来事により過去は被害者だったのだとしても「その出来事を今でも使い続けている自分」は「今の加害者」なのです。

会ってすぐに「受け入れて欲しい」と要求し、「どう思われたか」「あれを話したからこう思われたのか」「受け入れてもらえなかった」「裏切られた」と自ら不安材料を増やしてしまうのなら「過去の悲しい出来事」を会って直ぐの人に話すのはやめましょう。

きつい言い方ですが、それを「ネタ」にするのをやめるのです。

「傷ついたことがあったから人が怖くて何を話していいか分からない(だから話してしまう)」と言う人もいましたが、「人」を求めている自分を認め、『人が怖い』なんて言葉を使うのをやめ、話難いのなら「今の自分」は「人見知り」だと考え「なら、どうしたら良いか?」を考えるのです。

人との話題も「過去の辛かった自分」に乗せて話すのはやめ、
「今、何が嬉しかった」 「今、何が好き」 「今、嫌なことがあった」 「これから、どうしたい」

「今」の自分の話題をするように心掛けます。そうしているほうが 自分でも 「自分の良さ・面白さ・魅力」に気づくことが多くなるでしょう。

そうなると「悲しい過去の話」はコミュニケーションに必要なくなっていき、なくなってきた時に初めて「必要なかったんだ」ということにも気づきます。

意識してやっていた訳ではないので「癖」です。
癖とは、それが癖だと自分が認めないと「気を付ける」「やめる」ということが出来ません。

辛く悲しいことがあったのは事実。
それなら尚のこと本気で自分を可哀想だと思い、いっときの慰めや優しさを求めるのではなく、誰よりも自分が一番に自分の事を真剣に考えてあげ、これからはもう悲しい思いはさせないよう引き上げてあげましょう。

雨降りのお迎えの記憶

今日、催眠療法中に出てきたシーンのひとつに「雨の日、友達のお母さんが傘を持って学校へ迎えにきている」シーンがありました。

このシーンは他の方にも出てきたことがあるのです。その方もお子さんがいる女性でした。

「雨が降ったら迎えに行かないと、子供が大人になってから悩むことになってしまう」というのではありませんよ。

この出来事そのものが悩みの原因だったのではなく、催眠療法では次々と思い浮かぶものを話してもらうのですが、その中の一つです。そしてこの出来事が「悲しい出来事」だったのかと言えばそうでもなく、

催眠療法中は客観的に自分を見つめているので、このシーンが出た時には一瞬、『 友達を羨ましく思う可哀想な子供(自分)』だと思うらしいのですが、

よーく記憶を引き出してみると『 雨の日に迎えに来てくれるお母さんもいるのに、自分は来てもらえなかった悲しい記憶 』なのではなく、

迎えに来た友達のお母さんに『優しいお母さん』だとの印象を強く抱き、自分がなりたい『理想のお母さん』としていたのです。

『いいお母さんにならなきゃ』という気持ちが強くある時だったのでこのイメージが出てきたのでしょう。

私にも同じ記憶があります。私は傘を持っていっても下校時には傘もささない、長靴を履いて登校しても長靴の中に、わざわざ水道の水を入れて遊んでいたり、雨に濡れることなんてどうでもいい子だったのに、

それでも下校時間に雨が降ってきて、友達のお母さんが迎えに来ているのを見た時には「いいなぁ」と羨ましく思ったり『この子のお母さんて優しいんだな』と思ったのを覚えています。

『 雨・曇った空・傘がなくて濡れていく自分 』と『 よそのお母さんの優しいイメージ 』

良いイメージ(晴天)の、反対のもの(雨)は、
そう思っていなくても悲しいものに見えてしまうことがあります。

悲く思えるようなものと綺麗に見えたものとが一緒になると、どちらも大きく強く残ってしまうのかもしれませんね。