ダイエットの妨げになる「痩せたらやりたい・できるはず」

やりたい事があっても自分の外見のせいで出来ないという人がいます。
中でも多いものは体型で、太っているから自信がない、
痩せたらやりたいと思っているが、ダイエットをしても続かない。

このような方がダイエットが続かない理由は、
やりたいことを全て「痩せたらやろう」と考えているからです。

「痩せたらやりたい・できるはず」と考えている人は、
太っている今は何をやっても無駄だと思い、普段の肌の手入れも適当、お化粧も髪型も、
自分の好きなイメージではなく、何となくしているだけ。

服装も、どこかでいつも「痩せる予定」でいるので、太っている今の体型で洋服を買っても
無駄になるからと、好みの服よりも楽なものばかり着ているという方が多いのです。

しかし、その「太っている今は何をしても無駄」というのが間違いで、
ダイエットに挫折し続けている人は、「痩せたらやろう」と思っている事、
好きな髪型にしたり、肌や爪の手入れをし始めたり、好きなイメージを取り入れた服を着たり、
それらを太っている今から先に始めてしまった方がいいのです。

というのも、見えていないものを目指して動き続けるというのはとても難しく、
慣れていないことが急に始めるのも難しいからです。

いくらスタイルの良い女性でも、普段からパンツスタイルばかりで脚を出すことがなければ、
突然ミニスカートを履くことには抵抗があります。
「痩せたらやる、やりたい」と考えていても、慣れていないことは誰でもやりにくいのです。

全くお化粧をしたことがなければ、どのようなものを買っていいのか?
どうメイクしたら良いのか分からないかも知れないし、
メイクに慣れていなければ、どんなに良く出来ていても見慣れない自分の顔に
「これではおかしいのではないか?」と思ってしまうかも知れません。

こんなイメージの服を着たいと思っても、それがどこで売っているのか?
髪を巻こうとしても何で巻くのか?その道具は扱えるのか?など。

目標の体重になってから、急に全てが変わることはないので慣れておくのです。

また、ダイエットとは今までの習慣を変えたり、我慢する事が多いので楽しい事もなく、
綺麗になったイメージもわかなければ挫折もしやすくなります。

自分をかまう事に慣れ、先に少しでも楽しみを味わいながら、好きな髪型にしたり、
好きな服を着ることで「ここがもう少しこうだったらいいな」と、
イメージも具体的に湧きやすくなると、痩せたい欲も継続しやすくなるのです。

「つまらない」みんなは何が楽しくて生きてるの?

ある男性のクライアントさんが言いました。

「何をやっても毎日つまらない。皆は何が楽しくて生きているんだろう」

同じような事を言った方は他にもいます。
他人と自分を比べ、いじけたり羨んだりして言っているのではなく、心の底から溜め息を吐くように言うのです。

こんな風に「つまらない」と言うのは過去に「強烈に喜べた経験」があったからです。
今はそれがない、無くなってしまった。だからこそ「つまらない」のです。

これはあるお寺の掲示板に書かれていた言葉です。

『 甘い記憶は、現役を続ける人間にとって、無縁のものでなければ嘘である』

甘い記憶とは「喜びの記憶」です。
老い、体が動かなくなってしまった時、人には思い出しか残りません。

過去の喜びだけを思い「あの事があったから、あの思い出だけで満足」そう思うのも、
そう自分に言い聞かせるのも良い。

でもそれは、全てを諦めきってしまえるような状態になってからであり、
『現役を続ける人間』、今を生きている者は『思い出だけで満足している』というのは嘘でなければならない。

現役を続けられているうちは、喜びを求め続けよう。という意味だと思うのです。

現役を続けている者は「諦めることが出来ない自分」がまだいるので「つまらない」とも言えるのです。

「つまらない」と言えているうちは、また心のどこかで喜べる事がない自分に疑問を持っているということです。

疑問を持つということは喜びを求め続けていることには変わりないので、いつかはまた喜べる事が起こる。

喜びを求め続けていたなら、もし喜べる出来事がなかったとしても、
老いた時に、その喜びを求め続けた自分が「甘い記憶」になるのです。

夫婦カウンセリング・カップルカウンセリング

海外の映画では、よく夫婦で何か揉め事があると二人でカウンセリングを受けているシーンを見かけますよね。

日本でも段々と増えてきて、今日も他県から車で2時間かけてご夫婦がカウンセリングを受けにきてくださいました。
奥様は半月前に催眠療法を受けています。

ご夫婦でのカウンセリングは、カウンセラーの向かいの席にお二人並んで座って頂きます。
カウンセラーがどちらか一方の味方をしたり、どちらかを責めたりすることはありません。
奥様からのお申し込みの場合、ご主人はカウンセラーに何かお説教でもされると思うのか、

パートナーに対して普段思っていること「これがイヤ、これが辛い、本当はもっとこうして欲しい」を隣にいるパートナーに言うのではなく、前に座っているカウンセラーに向かって話していただきます。

カウンセラーは「どういう理由でそれが嫌なのか」「その時にどのような気持ちになるのか」を聞き、もう一人には「では何故それに応じられないのか」そして「パートナーこう言っていますがどう思いますか」と質問したりします。

パートナーには面と向かって言い難いことも、皆さん、前を向きながら私に向かってなら話せるのです。

普段から何気なく言ってしまっている言葉も、それでどれだけ相手が傷つけていたのか、
良かれと思ってやっていたことが相手にとっては負担だったこと等、カウンセリングの中に初めて知ることが多いです。

文句だけでなく、懺悔の言葉や、尊敬していること、感謝していることも伝えられます。

夫婦には長く一緒にいるからこそ、分かっているようで分かっていない面、分かっていないようで分かっている面、両方あり、身近な者だからこそ、改めて冷静に話すことが出来なかったり、言っても無駄だろうと諦めてしまったりしていることが多いです。

カウンセラーに向かって話し、お互いの考えを知ると、夫婦だけが問題ではない小さな原因も見つかることもあります。そこから改善策も見つかっていきます。

今回のクライアントご夫妻も結婚して15年でしたが、気遣いからの誤解がとけたり、初めて知った相手の想いもありで、一緒に暮らしている相手のことなのに、お二人とも驚くことが多かったようです。

途中から、以前の出来事を思い出したのか、奥様が「あー、あの時も、そう言うつもりで言ってたの?」ご主人「うん、○○だと思ってたから。ごめん」奥様は泣きながら「もー、わかんないから!ごめんね」と。
ここまでくるとお二人で向き合って話しています。

全ての方では無いですが、最初はギスギスしていた二人が、お互いの気持ちを知り、誤解が解けてお二人で泣いて「ありがとう」や「ごめんね」を言い合ったりして、見ていて感動することも多いです。


離婚の話し合いの為に夫婦カウンセリングを利用する人、離婚後も経営しているお店で一緒に働いている、
結婚の前に不安を解消しておきたいという方々にもご利用いただいてます。

夫婦の問題を他人に知られるのは恥だと思ったり、二人だけで解決するものだと思わず、お気軽にご利用ください。

願いの重さ

去年の今頃、友人に誘われて東京駅北区にある王子稲荷神社に行きました。

この神社には 願い事を唱えながら持ち上げ、持ち上がるか持ち上げられないかで願いが叶うか叶わないかを、
軽重によって願いが叶うまでの大変さを占う「 御石様 」という石があるそうです。

「 願いが叶うかを石に聞くなんてナンセンスだ!願いを求め動き続けていられる自分なのかを確かめてみよう!」
なんて言いながらもワクワクしながら神社に向かいました。

境内の奥の奥のほうに御石様はあるそうです。

奥に行くほど道は狭く、木がいっぱい。陽射しは遮られどんどん薄暗くなっていきます。
赤い小さな鳥居を幾つもくぐり抜けたところに御石様がありました。

御石様はどう見ても、持ち上げるなんて無理という大きさ。
しかも、石を乗せてある台がコンビーフ缶のような四角錐台で、
石を持ち上げるには手を伸ばした状態になるので力も入れにくそうです。

二人で軽く絶句した後、私が先に挑戦することにしました。

びくともしませんでした。

続いて友人。

ゴトッと鈍い音がして、
「 やった!!一瞬持ち上がったよ!一瞬でも持ち上がったことは持ち上がった!やったぁー!!」 
はしゃぐ友人。

私は悔しくなり、履いていた8cmヒールのサンダルを脱いで裸足になり再挑戦しました。
すると今度は一瞬ですが 持ち上げることが出来ました。二回目なのであまり嬉しくありませんでした。

その時、大きな石の横には小さな簡単に持ち上げられそうな石があったことに気がつきました。

特に「子供用」だなんて書いてありません。

きっと、最初からこの小さい石も見えてはいたのでしょうが、私も友人も、
恐らくほとんどの人は小さい石ではなく、大きな石に挑むのでしょう。

簡単に叶わないと思うから「願い」なので、小さな石を選んで簡単に持ち上げても
「こんなんでホントに叶うの?」と信じることが出来ないからです。

私は「やっぱり私こっちがいい」と小さい石を持ち上げ
「ほら、簡単に持ち上がったよ!」得意気に友人に見せたのですが、
友人は、私にも石にも「小物め」とでも言いたいのか無言で大人な笑みを浮かべています。

帰ろうとした時、友人が「でも、かなり重かったよなぁ」と遠くを見ながら言いました。

感じた重さは、その願いが叶うまでの大変さを教えてくれるものだからです。


たぶん、この御石様は、
石が持ち上がらなくて「持ち上がらなかったからダメかぁ」
と簡単に諦めることが出来てしまうのなら『その程度の願い』だということを教え、

『重かったから、願いを叶えるのは大変なんだな』と思ったのなら
「それだけ大変なことに挑んでいるんだよ」と覚悟をさせ、

石を持ち上げようとして、心が揺れたのなら、
「願いは叶うの?」なんて答えを求めても「そんなの誰にも分からないよ」
「叶うか叶わないかを考えてどうするの?」
「叶えたいのなら、叶うように自分が動き続けるしかないでしょ」
ということを教えてくれるものなのだと思いました。

なんてことを偉そうに友人に語っていたら、私だけ八箇所も蚊に刺されていました。

帰り、神社の方に、教えてくれないだろうと思いながら、石の重さを聞いてみると
「あれはねぇ、○○キロなんですよ」と簡単に教えてくれました。

何キロだったかは内緒です。

あれから一年、私の願いは叶っていると言えるでしょう。
迷ったり揺れながらですが、それでも私は目標に向かい続けられているからです。

「完璧な人はいない」のではなく

「 完璧な人はいない 」

この言葉は良く聞きますよね。

確かにそうなのですが、正確には「完璧な人」というのは「いない」のではなく「存在しない」のです。

というのも、人が思う「完璧」というのは、人それぞれ違うからです。

「これを人は尊敬するだろう 」「こういう人は好かれるだろう 」と自分が思うことも、
 同じように思わない人もいるのです。

なので「 完璧な人間は存在しない」のです。

人間関係で悩みを持ちやすい方には「完璧な人は存在する」と無意識に思っている傾向があります。

何故「完璧な人間がいる」と思ってしまう方は人間関係での悩みが多くなるのかというと「完璧な人間がいる」と思ってしまう方は、他人のある一面を見ただけで、一目ぼれのように「この人は完璧」と決めつけてしまいがちです。

でも一度そう思った人にこそ、自分にとって不都合な何かが少しでもあると今度は一変して「最悪な人」
だと思うようになるのです。しかもどこか「騙された」というような気持ちを持ちながらです。

完璧とまでは言わなくても初対面で他人を「良い人」と「悪い人」の二種類に分けがちで、その見方も簡単に変わってしまうのです。

では何故、良い人だと思った人に違った面が見えると「まあ、こいういうところもあるか」とは思えず、裏切られたと感じて「嫌な人」にしてしまうのかというと、どこかで『自分の幸せは自分の努力ではなく、自分以外の誰かによって決まる』と考えているからです。

なので探しているのでしょう、自分にだけ完璧に都合が良い人を。つまりは他力本願なのです。
当然その人の都合の良いことばかりできる人はいないので、不都合なことがあると「裏切られた」となってしまいます。

そして、このように自分が他人を極端に判断していると、自分も他人から同じように見られると考ます。

自分も他人から「良い人」か「悪い人」かのどちらかに思われるかと思うので、出会ってから短時間で相手から好かれることを求めたり、
少しでも好感触ではないと感じると「嫌われた」と思い込んでしまうため、自分の言動一つで他人にどう思われてしまうのかを気にし、必要以上に失敗を恐れたり、身動きが取れなくなってしまう為に人間関係に悩みが多くなってしまうのです。

このような考え方になってしまう方は、幼い頃の環境、過去の経験などどこかに原因があるのでしょう。
ですが原因を探さなくても、これから、初対面の人に会った時に相手のことを「良い人」「嫌な人」と分けたり、
自分のことを「好かれた」「嫌われた」と思ってしまったとき、「また直ぐに決めつけていると自分」を振り返るようにするだけで、ゆっくりですが確実に何かが変わってきます。

愚痴、自慢、悪口をコミュニケーションのツールとして使ってしまう



相手との関係を早く深めたい、早く信用されたい、早く自分を思われたいと焦る人ほど、愚痴、自慢、悪口をコミュニケーションのツールとして使ってしまう人が多いのですが、これは逆効果になることの方が多いです。

例えば女性が、仕事の関係者に家庭の話をしたとします。
「仕事と家事との両立は大変」だという話をしたとします。本人としては軽い愚痴のつもりだったり「両立は大変でも頑張っているの」と伝えたかったのだとして、相手にもそのまま「いいお母さん」「頑張っている人」という印象を持たれるということもあるかもしれません。

でも『この人に仕事を任せて大丈夫だろうか? 』と思われたり、『そんなに大変なら、仕事はあまり頼まないでって事かな』と気遣われてしまうこともあるのです。

異性との間では、自分をよく見てもらいたくて他の異性とのことを話す人がいます。
相手に嫌な思いをさせるつもりはなく、相手を好きだからこそ自分の価値が高いと思って欲しくて、他の異性に言い寄られた話や過去の異性関係などの話をしてしまうなど。それが原因で嫌われたら「やきもちを焼かれた」と思うかも知れませんが、やきもちではなく、異性の話を平気でする無神経さが嫌になるのです。

悪口もそうです。
共通の人物の悪口を言って、共感してもらいたいのもあれば、「私はあなたには何でも話すの。だから私のことも信頼して」という気持ちが含まれていることも。ですが共通する人に悪口を言えば、話された側は『自分のことも陰で言われているのでは・・』と思い信用されるどころではなくなるかも知れません。


好かれたい、関係を深めたい、信頼されたいと思うのなら、自分の中にある「直ぐに自分を知ってもらおう」と言う気持ちを認め、抑えることです。認めないと抑えると言うことはできません。

早く関係を深めたい焦る人は相手のことを見ていないことがあります。関係を深めたいと思うのなら、自分を知ってもらう前に相手をよく知りたいと思いましょう。すぐには分からないでしょうが、よく相手をみて話を聞き、ゆっくりと反応を見ていれば少しずつ分かって来るはずです。

緊張して何を話していいか分からないと言う方もいますが、そうしたらそのままの自分の気持ちを「緊張して何を話していいのか分からなくて」に「話したいのだけど」「会えて嬉しい」も加えて話すのです。そして相手の返事を待ち、相手の返事に対してまた自分の気持ちを返す。変なことを言ってしまったと思ったなら「変な言い方になってしまった」と伝える。コミュニケーションの初めはそれでいいのです。

伝える・伝わる

中2~中3の時の彼氏
どこが好きかも、なんで付き合っているかもわかりませんでした。

顔も良くない(ごめん)性格もどうとも言えない。
家は近所だったのでよく遊んでいましたが、
二人ともあまり話さなかったので、どんな会話をしていたのかも覚えていないのです。

友達からは「なんで付き合ってるの?」とよく聞かれした。


二人とも音楽が好きで、よく一緒に音楽を聞いていました。
聞きたい曲が合わない時は片方がスピーカーで、片方はヘッドホンで。

とにかく会話はほとんどせず音楽を聞いてばかりいました。

たまに私はだらだら絵を描いて、喧嘩もしたけどそこでも会話はなし。

喧嘩の仕方も会話ではなく、お互いが聞いている音楽のボリューム、
その音の大きさで「怒っている」「そんなの知らない」を表現しあっていました。

仲良しの時は、同じ曲を聴きながら二人で「うお~!」って顔をして、
「この曲のここ!(イイね!)」という時は、頭をフリフリ、リアクションで気持ちを表現

嬉しくて体を絡めあい、二人で音楽に溶けていたような感じでした。

好きだったのか、好きな音楽が合った時が仲良しなのか分からないまま、
なんだかんだ2年間付き合っていました。

(彼は交通事故で17歳で死去しました)




それから時は流れ、私は大人になり
体調も悪く、理由の分からない虚しさに襲われていた頃、私はとにかく何かを始めようとして
『英語で歌が歌ってみたい』という理由で英会話教室に通い始めました。

ですが私の英語のレベルは酷いもので、覚えている単語は2つだけ。

「キューカンバ」(きゅうり)
英語も日本語も似ているから覚えていました。

あとは「アンビュランス」(救急車)
救急車がこんなカッコイイ言い方だったのか!と感動したので覚えていました。

この2つしか覚えていない程度。


日本人の先生とのマンツーマンの教室へ。

先生は日本人なのに日本語は一切使わないと言われました。
英語ができない私が話せるはずないのですが、
少しは日本語でも教えてくれるだろうと思っていました。

ところが、最初の挨拶から終わりの挨拶まで 日本語は一切使ってくれません。

先生の質問もわからない。
私が日本語で質問しても、すかさず先生が英語で繰り返すだけ。
でもどこの部分を言っているのかもわからない。

何が分からないかを伝えることも出来ない、
何が通じたのかも、会話になっているのかいないのかも分からないのです。

ジェスチャーと、先生と私が絵を描いて伝えることは少し許されていましたが、
日本語が全く通じない国に、一人でポツンと置いていかれたような心細さがありました。

分からないし恥ずかしいしで、黙っていると進まない、
だから話そうとするけど話せない。

でも、こんな話せない状況がしばらく続くと恥ずかしさも消えてしまい、
とにかくなんでもいいから必死に伝えようとする日が続きました。

そんなレッスンが続いたある日、
私は「今 何が辛いのか」「とにかく何が好きなのか」を泣きながら話していました。

それが通じていたのかもわからないけど、
その日のレッスンが終わってから、突然先生が日本語で話しはじめました。

「ここでは、皆さんが伝わらないながらに、それでも必死に何かを伝えようとします。
人は必死になると、自分を囲んでいる何かが取れると、当たり前のものが通用しないと、
そうなるとその人の「核」が出るような気がします。うちに通う方は一生懸命な人ばかりで、
あなたのように必死に伝えようすること自分が一番何を思っていたのを知る方が多いのです」
と仰いました。

先生のその言葉は、私の心に重く響き、
先生には感謝しながらも、私はそれから直ぐに英会話を辞めました。



現在の私。
カウンセリングの時、クライアントさんが相談内容を夢中で話している時、
話が前後したり、バラバラになったり、枝分かれしたりします。

クライアントさんは急に我に返り「あ、これじゃ訳わからないですよね」という方もいるのですが
「支離滅裂でいいです。話の順番なんてバラバラでかまいません」と答えています。

本当にそれでいいのです。

一つの悩みには、現在の出来事だけではなく過去の小さなひとつひとつが絡まっているので、
それを全部きちんと順番通りに話そうとするのは無理です。

でも、人は一生懸命に何かを伝えたいと思えば、話す順番がぐちゃぐちゃでも
支離滅裂でも「なにか」は伝わるのです。

むしろその方が、英会話の先生が言った通り、
その人の「辛さ」「悲しさ」「何をどうにかしたいか」伝わってくるのです。



中学生の二人は、とにかく音楽が好きだったのかも知れません。
互いにそれが伝わりあっていただけなのでしょう。

英会話は、英語の歌が歌いたかったら通い始めましたが、考えてみたら、
英語の歌は意味はわからなくても、いつも「ものマネ」で歌えていました。

それなのに何故、英会話を学んで歌いたいと思ったのか。

きっと、その時の私は、中学生の時のように「感じたままに動く」ことが出来ず、
全てにおいて「 ~でなければならない」が強くなっていたのでしょう。

それを英会話を習いに行き、必死に伝えることで思い出せたような気がするのです。

何でもやってみるもんですな。


英会話の先生から「マグドナルド」の発音だけ「こんな上手に発音できる人はいない!」と褒められました。
でもそれも英語だったので、本当にそう褒められていたのかは分かりませんが・・・メイビー!

心に残る雲

特に嫌な事があった訳でもないのに心に暗い影がさすことはありませんか?

楽しい事をしていたり嬉しい事があった時なのに、そんな時にふと心に暗い影がよぎるのです。
何故かは分からないし、はっきりと見えません。

そのうち忘れてしまうけど、また何かの拍子に現れ、また消える。
心が晴れている日なのに、急に雲が現れては消えるのです。

その雲の正体はなんでしょう?

それは自分の中に在るんだけど 見ないようにしてるものです。

自分のやるべき事や、やりたい事、やめなくてはいけない事なのかもしれないし、
誰かへの罪悪、誰かへの想いなのかもしれません。

どうにかしたいと思いながらも、

もう遅い、早くしなきゃ、

でもこんなに遅くなっちゃった。

どうしよう、 でも今更・・・

そうなってくると 見るのが嫌になり、見なくなってしまった「何か」なのです。

それは 子供が気軽に飼ったけど世話をしきれなかった小動物と似ています。

お祭りですくったミドリ亀。
飼い始めた時は毎日世話してたのにある日エサをあげるのを忘れてしまう。

「今日は絶対にエサをあげなきゃ」 と思っていたのに、また忘れてしまい遊びに行き、
遊んでいる途中で思い出したけど、家に戻るのが面倒で
「 まだ大丈夫だよね。帰ったらあげよう」と、そのまま遊び続けます。

なのに帰ってからも忘れてしまった。
次の日も。

そうなると、
家に居る時に思い出してたとしてももう怖くて洗面器の中を見れません。

まだ生きてるかもしれないと思っても瀕死(ひんし)の状態は見たくないのです。

『こんな状態にしてしまったのは自分なんだ』と思うのが怖くて、
まだ かすかに動く亀を見るのが怖いのです。

怖くなると、子供は更に遊びに夢中になります。

忘れたフリをしたいのです。

そうして 洗面器の水も乾き、亀が生とも死とも関係のない干からびたモノになるまで
忘れたふりをして待ってしまうのです。

死んだ亀を片づける時も、モノを捨てるように そっけなく行います。
そこでは何も考えたくないからです。

同じことした友達は笑って言っていた。

「 カメ、干からびちゃった! 」

ああ、皆もそうなんだ。別にいいんだ。仕方なかったんだ。
こんなこと「ささいな事」なんだ。

友達と一緒に笑いながらも、飢え乾いていく亀の姿がチラつき気持ちが曇ります。

しはらくすると、心が曇ったとしても亀は見えなくなります。

こうして「雲」だけが残ります。

では、たとえ瀕死の状態でも生きているうちに洗面器に水を入れたり、謝るだけでも、
今の自分に出来る 精一杯の事をやっていたとしたらどうだったでしょう?

たとえ亀が死んでしまったとしても、雲は薄く小さくなっていったでしょう。

それはその後の様々な出来事にも違いが出てくるのです。

亀はお腹が空いても鳴けませんし苦しくても叫べません。

死んでも気が付かれないかもしれません。
子供には飼う事が難しかったかもしれない。

でも 亀はいました。

自分の心の声も同じなのです。
自分の中に何かがある時、自分が聞いてあげないと誰にも気が付かれません。

こうしている間に忘れて行くだろう。
仕方なかった。 今更やっても仕方ない。 みんなそうだ。 別にいいんだ。

これは間違ったポジティブです。

無理に考えないようにしても、得たいの知れない雲は心に残ります。

雲が在ることを無視して、上からいくら明るいものを重ねようとしても晴天にはならないのです。

何だか分からないけど心によぎる雲がある時、それはいったい何なのか?
怖がらずに 嫌がらずに ゆっくりと静かに見つめてみましょう。

そうして雲の正体がわかった時、
もう無理だと思っていたけどやらなかっただけで まだ出来る事かも知れません。
出来ないと思い込んでいただけかもしれません。

もし間に合わなかったことでも、出来なかったとしても、戻れないとしても、

「これがやりたかったんだ」「これをやめたいんだ」

「自分にも悪いところがあった」「あやまりたいんだ」

「これが嫌なんだ」「これが嫌だったんだ」

「これが好きなんだ」「好きだったんだ」

『 本当は、前からそれを知っていた』と、自分の気持ちを認めるだけでも雲は薄くなっていくのです。

動きたいのに動けない理由の一つに

自分の好きなことができないという人の理由の中には「自分には無理だから」 「〜だから出来ない」など色々ありますが、理由の一つに「人からどう思われるかを気にして」があります。

例えば、自分の好きな服装があったとしても。買えないという金銭的な理由ではなく、体型も関係なく、流行りきったものや無難な服ばかりを着て“ 自分がイイと思う自分の好きな服 ” を着れていない人は結構いると思います。

着たいのに着れない理由の 最初に出てくるものは、「 似合わないから」「 体型が合わない」

でも、もう少し心の奥をみると、今までとは違うイメージの服を着て誰かと会った時に

「 張り切ってると思われたらどうしよう?」「 急に変わったと思われてしまう」
「 似合ってないのにどうしたの?やめとけば?とか思われるのが嫌」

だから嫌、だから無理となるのです。

自分の好きな服を着たからって、みんなから「あー! 」と注目されるとは限らないのですが、自分の好きな服を着たところを想像すると「 とてもイイ 」と感じるからなのでしょう。思えば思うほど他人からどう思われてしまうかを気にして着れなくなるのです。

どうして急に変わったと思われるのが何故そんなに嫌なのでしょう

「 でも・・噂とかされたら嫌だし。思われただけでもイヤだし」

噂されて、その先に何があるのでしょうか?その後の何が怖いのでしょうか?

「 でもイヤ、でも無理」

こうなってしまう原因は、実は自分の中にあります。
他人からどう思われるかを気にする人は、友人が急にいつもとは違う雰囲気の洋服を着ていたとしたら、それが似合っていればいるほど「なに張り切ってるの? 」と思ったり、少し意地悪なニュアンスで「どうしたの〜?」と言ってしまうでしょう。

自分が好きな服を着ることを勝手に諦めていながら、着たい気持ちは消えていない為に妬んでしまっているからなのです。
似合っていることに妬むだけでなく、自分には無い「変わるために行動する勇気」にもです。

人間は自分の考え方と他の人の考えが同じだと思っていることがあります。自分が人を見る時に妬みから意地悪な目で見てしまうから、自分も人からそう思われると思ってしまうのです。

「妬んでいた」そんな自分を認めてしまえば、いいなと感じた人を見たら「いいな」「 私もそうしたいな」と素直に思えるようにもなります。

自分がそうなれば、意地悪な人ばかりではなく「 いいな」と思う人も居るのだとわかり、自分が動きやすくなるのです。

好きな服で例えてみましたが、洋服でなくても、自分の本当にやりたい事や 望む生活も、失敗を恐れて動けないのではなく、「人からどう思われるか?」を恐れて動けない人が多いのです。

何事もやってみてから自分には合わないと知りやめるたのなら良いのですが、やりもしないで諦めてしまうと気持ちは不完全燃焼を起こし、それは妬みや嫉妬に変わってしまうこともあります。

そこまでは解っている、でも動けないんだ、と言うのでしたら原因はもっと奥深くにあります。
知りたい方はカウンセリングをご利用ください。

カウンセリングを受ける理由は何でもいいです

昨日のクライアントさん、
初めての方ではないのですが、お申し込みメールにご相談内容が書いてありませんでした。

当日、ご相談内容をお聞きすると、

「あ~、なんかね、むしゃくしゃして友達と長電話してたら携帯の通話料金あがっちゃってさ、だったらここ来た方が、まだね、(マシかな)と思って。」

私、大笑いしてしまい「そうでしたか。で、何がむしゃくしゃなんですか?」

「あー、なんだかんだで、結局は金欠ですよ、金欠。
それも絶対に自分が譲れない事に使ってるから仕方ないんだけど。その譲れないってのはね、3つあって…」

そこから雑談のような感じになりましたが、
最後にはむしゃくしゃの原因は金欠だけではなかったこと、
譲れないから仕方ないと思っていた事でも譲らざるを得ないことも、譲れるようにするには何をすれば良いか、
何からどう動いていくか、本当は何がしたいのかが整理できました。

カウンセリングを受けるは理由は何でも良いのです。
「何でもないんですが」こんな理由の方も結構います。

それでも対話の中で自分では分からなかった自分の中に在るものが見えてきます。

私も友人と話をしていて、全く関係ないような話から「ああ、私は今、これに悩んでいたんだ」
と気が付くことがよくあります。

イライラ、モヤモヤする理由が分からないという時もカウンセリングをご利用ください。